アレグリアとは仕事はできない 津村記久子 感想

 コピー機の「アレグリア」にOLがイライラをつのらせ、それを巡って、周囲の人間関係が展開されていく、といった話。孤立した怒りが最終的に他者と共有される。

 機械という人間ではないものに対して他者性を抱いている。それもロボットとかではなく、コピー機に対して。心なきものに心を見ることは、普通の人間関係でもよくあることだ。見知らぬ他者に対して、まだよくわからない他者に対して、私たちは内的なものを投げかけて、他者を作り出していくのだから。いや、それは他者とはいえない。内的なものを投げかけられながらも、それでも自立的に存在するのが他者なのである。
 この小説で描かれるコピー機はあくまでコピー機にすぎなくて、そこには鉄腕アトム的なロボット性もない。純粋なモノという感じである。だからこそ、主人公のミノベは「機械への感情移入の度合」が強いことを内省する。アレグリアに事実欠陥があるとはいえ、ミノベの怒りが映し出されるものとして、アレグリアはある。内的なものを投げかけているからこそ、ミノベは人間関係から孤立していってしまうのである。そうしたひとり相撲が誰にも共感されないということが、この作品の核なのだと思う。前半のミノベの孤立感の描かれ方が上手く、作者は意図してそのように前半では見せようとしている。また後半にも「機械が入れ替わったとしても、劇的には変わらないかもしれないのは覚悟しといてください」と釘をさすように付け加える。

 ミノベと対比させるように描かれるトチノ先輩と共感に至ることがこの作品の一つのカタルシスではある。けれども、それでも最後まで先輩はあからさまに怒らず、ミノベと同じ形では怒りを見せない。お互いはお互いの孤独を解り合うのである。完全に一体になるということはやはりなくて、他者はやはり他者として生きて、すれ違い様にしっかりと心が重なっている。

アレグリアとは仕事はできない (ちくま文庫)

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