地下鉄の叙事詩 津村記久子 感想

 満員電車で通学、通勤する人たちの話。異様な質感を持つ小説だった。それは多面的な世界を描くことによって成り立ったものというより、日常で切り離されているものを描こうとする意志からくる手触りなのだろうか。

 電車は人間が大勢乗っており、人間一つひとつに人生がある。当たり前のことでありながら、思い描くことが困難なことである。他者に開かれた作者は、異性としての大学生、会社員男性を描いて見せる。津村さんの筆致と想像性であれば、それは容易なことなのかもしれない。そのおかげでこの小説もまた他作品と同様に多声的な世界を作っている。本作では4つのパートに分かれ、4人の主人公が描かれるだけに、それはより解りやすく読者に伝わるであろう。しかし、この小説を、例えばバフチンドストエフスキー評に用いたポリフォニーのようなもので理解するのは適切ではない。なぜなら、4人の主人公はどこか融合的であり、共通した不快や怒りを抱えているからだ。この小説を読んでいる時の畏れのようなものは、そうした融合的な不快感や怒りにある。

 この小説は「現代性を描いている」という話に結び付けられやすいかもしれない。例えば、この小説を引いて現代人はこんなにも苦しめられているんだと語ることはできよう。満員電車に揺られる日常性は、そうした思いを喚起させるに十分な素材である。確かにそういう面はある。が、これらの日常性は何もいまに始まったことではなく、もうずっと、何十年も社会を根底から蝕んできていたもののはずだ。ただ、ずっとそれが自覚されないか言葉にし得ないだけである。そして自覚されていないからこそ、四人の主人公の孤独はあるのだ。四人の孤独は強く巾の広い自意識故に、切り離され封じ込められたものに触れようとする。言葉を引けば「満員の電車の中というのは、誰とも心を通わせることもなく、体の距離だけがむやみに近いという異常な状態」であることへの気づきである。切り離されたその異常さは、私達の自覚しえないところで辛苦になっている。その切り離された異常を掴むのが本作の意志であり、それが複数の声を融合させつつ表現されているように思う。
 異常といってもそれはもう異常ですらない。怒りをぶつけても変わらないのが現実であり、だからこそ「順応の作法」「閉じ込められることの作法」が模索されているのだろう。この状況下では、これ以上の飛躍は不可能であり、飛躍は相応しくもない。もしさらなる飛躍を求めるのなら、この小説の、満員電車という空間外で行われるべきことだろうか。

アレグリアとは仕事はできない (ちくま文庫)

アレグリアとは仕事はできない (ちくま文庫)

アレグリアとは仕事はできない 津村記久子 感想

 コピー機の「アレグリア」にOLがイライラをつのらせ、それを巡って、周囲の人間関係が展開されていく、といった話。孤立した怒りが最終的に他者と共有される。

 機械という人間ではないものに対して他者性を抱いている。それもロボットとかではなく、コピー機に対して。心なきものに心を見ることは、普通の人間関係でもよくあることだ。見知らぬ他者に対して、まだよくわからない他者に対して、私たちは内的なものを投げかけて、他者を作り出していくのだから。いや、それは他者とはいえない。内的なものを投げかけられながらも、それでも自立的に存在するのが他者なのである。
 この小説で描かれるコピー機はあくまでコピー機にすぎなくて、そこには鉄腕アトム的なロボット性もない。純粋なモノという感じである。だからこそ、主人公のミノベは「機械への感情移入の度合」が強いことを内省する。アレグリアに事実欠陥があるとはいえ、ミノベの怒りが映し出されるものとして、アレグリアはある。内的なものを投げかけているからこそ、ミノベは人間関係から孤立していってしまうのである。そうしたひとり相撲が誰にも共感されないということが、この作品の核なのだと思う。前半のミノベの孤立感の描かれ方が上手く、作者は意図してそのように前半では見せようとしている。また後半にも「機械が入れ替わったとしても、劇的には変わらないかもしれないのは覚悟しといてください」と釘をさすように付け加える。

 ミノベと対比させるように描かれるトチノ先輩と共感に至ることがこの作品の一つのカタルシスではある。けれども、それでも最後まで先輩はあからさまに怒らず、ミノベと同じ形では怒りを見せない。お互いはお互いの孤独を解り合うのである。完全に一体になるということはやはりなくて、他者はやはり他者として生きて、すれ違い様にしっかりと心が重なっている。

アレグリアとは仕事はできない (ちくま文庫)

アレグリアとは仕事はできない (ちくま文庫)